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ひたちなか海浜鉄道に乗ってきました [旅行・鉄道]

 土浦から常磐線に乗りました。土浦ー上野間の電車は私が子どもの頃に比べて格段に増えました。しかしこの駅のホームはこんにちでも2面のままです。
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 電車が走り出してから予定変更。水戸の一つ先、勝田まで行き、やはりまだ乗っていなかったひたちなか海浜鉄道湊線(みなとせん)に乗ろうと思いつきました。
 勝田に到着して改札を出ると、一日フリー切符を売っていることに気づきました。早速購入。
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 また改札に入り直し、湊線のホームへ。ところがやけに混んでいます。カメラを持った鉄オタと小さい子どもを連れた家族連れがいっぱい。よくよく乗車券を見ると、鉄道開業7周年記念のお祭りがあるようです。鉄道そのものは昔からありましたが、現在の会社になってから7年というわけです。
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 3両編成のディーゼルカーです。さいわい座ることはできましたが、立っている人が多くてまるで山手線のよう。景色の写真も撮れないまま終点の阿字ヶ浦へ到着しました。
 多くの客はここからシャトルバスでお祭り会場の一つである国営ひたち海浜公園へ行きました。しかし私は徒歩で阿字ヶ浦海水浴場に行きました。
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 昼食を食べようと思いましたが、どこも空いていません。海水浴シーズンではないので当然です。
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 やむなく阿字ヶ浦駅に戻りました。
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 幸いなことに帰りの列車は空いており、景色を堪能できました。
 常磐線で友部へ行き、水戸線で小山に戻りました。
 写真は友部駅です。
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 近県にはまだまだ乗っていない路線があります。水郡線の常陸太田には行ったことがありませんし、群馬県内はほとんど手つかずです。

つくばから土浦に行きました [旅行・鉄道]

 さて、つくば駅に到着しましたが、これからどうしよう? と考えました。
 小山に戻るには二つの方法があります。土浦までバスで行き、友部まで下って水戸線に乗るか、筑波山の麓までバスで行き、さらに下館あたりまでバスに乗るかのいずれかになります。筑波山口(つくばさんぐち)からのバスは本数が少ないと考えられましたので、とりあえず土浦に行くことにしました。
 土浦はとなりの市ですし、つくばとは結びつきが強いのでバスは比較的多く走っています。しかし乗ってみたらがらがらで、バスの中には「路線が廃止にならないようたくさん乗ってください」という内容の掲示がありました。
 土浦駅まで乗ってしまおうと思いましたが、駅の三つ手前、亀城公園(きじょうこうえん=土浦城趾)で降りました。
 子どもの頃は何度もここに足を運んだものです。
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 本丸などはなくなってしまっています。
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 土浦は物資の集散地でした。
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 ここから駅までは近いので、商店街の中を歩きました。地方都市はどこも車社会です。かつては県内一と言われたバスも本数は減ってしまっています。そして駅前通りはいわゆる「シャッター通り」化してしまっています。いくつかあったデパートもすべて閉店。しかしなかにはユニークな店も多く見受けられます。
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 ここには桜町という北関東一の風俗街もあります。海軍の町だった名残なのか、江戸時代からのものなのか私は知りません。かつては接待用に料亭も多かったようです。

TXに乗りました [旅行・鉄道]

 昨日新宿で友人と飲み、秋葉原に泊まりました。
 一夜明けて、ただ帰るのではつまらないと思い、TXに乗ることにしました。乗り鉄の私ですが、ここは初めての路線です。
 私は土浦出身です。しかし1990年をもって茨城とは縁が切れてしまいました。TXができたのは2005年でしたので乗る機会がありませんでした。
 
 TX秋葉原駅です。朝早いせいか、すいていました。
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 南千住までは地下となります。
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 区間快速でつくばに到着しました。とにかく「速い」と感じました。
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 もともと日本鉄道海岸線(現在の常磐線)は、当初いまのTXと同じようなルートが計画され、流山を通る予定でした。しかし当時の流山では「鉄道ができると水運業が衰退する」という理由で鉄道を通すことに反対しました。いっぽう柏などでは鉄道誘致運動を行いました。この結果現在の常磐線のルートで1896年に海岸線ができています。
 しかし鉄道が流山を避けたため、逆にこの地は発展から取り残されてしまいました。このため流山と馬橋の間に軽便鉄道が作られましたが、流山と東京が直結する鉄道ができるためには21世紀まで待たねばなりませんでした。
 明治時代前半は必ずしも鉄道に好意的な意見ばかりではなかったようです。「汽車の煙が桑の葉について蚕が死んでしまう」「若者が町に遊びに行ってしまい働かなくなる」などの風評があったようです。また流山の例でもわかるように、水運との競合もありました。千葉県の外房方面では鉄道建設の要望が強かったのに対し、内房ではそれほどでもなかった、という例もあります。
 しかし「若者が町に....」というのは、「若者が東京に買い物に行っていまう」「若者が東京で暮らしたがる」という今の現状と同じなのかも知れません。